今だけ日記

すぐに変わる今の感情を書き残すことにしました。

最近思うこと

最近とてもしあわせを感じる。

朝起きて、暖かい肌触りの良い毛布にくるまれて目を覚ませることに最高だなと嬉しくなったりする。

母といろんなところに出かける。

去年の暮れには10年ぶりくらいに実家にも行けた。

泊まれた。おもてなしもしてもらえた。

楽しかった。嬉しかった。

友人と何気ない話をするが内容が変わった。自分の話したいことや普段考えていることを話せるようになった。理解されないと思ってこの親しい友人にすら口にする選択肢さえもともとなかった頭の中のごちゃごちゃを気付いたら話すようになっていた。友人も聞いてくれる。自分の意見も言ってくれる。ちゃんと会話になっている。

もちろん中身のない話も沈黙もこれまで通りある。その上でこの件が新しく増えたのだ。

嬉しい。満たされる。

ごく自然にこれらの関係が身近にある。

仕事もいろいろあるが、あるだけでありがたい。

食べていけている。体もこわしていない。

アレルギーは相変わらずだが気長にやっている。

 

今年は正月と節分に熱田神宮へ、旧正月伊勢神宮へ行けた。行けるだけの時間とお金と動ける体があるということだ。その上で神様へご挨拶もできた。

去年の暮れには大祓の神事に参列出来た。

おかげさまで年が明けてからもずっと気分よく楽しくしあわせを感じながら生活できている。

 

そしてこれまでのことを考えると、私がこうして周りの人と共存して生活できるなんて奇跡みたいなものだなと思う。

とても辛いことがあっても、それは時間が経てば必ず終わるのだ。

辛いと実感することが出来ないくらいの環境で未来を考える選択肢がない状況でも、時間が経てば必ず変わる。

こうしてしあわせを感じる心を持った自分になっている。

 

辛いこともいやなことも必ず終わる。

何事も時間と共に変わっていく。

終わる選択肢など知らなかったとしても、終わるのだ。

過去がなくなるわけではないが眼の前にあるものは姿も形も色も匂いも変わる。

みんな知ってたのかな。

最近しあわせを感じる程にそれを実感する。時間や人生というかこの世の中の仕組みとはなんというものかと。

そうしたら諸行無常という言葉があったことに気付いた。

仏教では既に教えられてた。

仏教すげぇ。

 

今のしあわせも永遠に続くものではなく、姿も形も色も匂いも変わっていくんだろう。

それはきっと楽しいことなんだと思う。

変わっていく度に得られる喜びや気付きを大切にして今しかない今の私のしあわせを存分に味わって生きていこうと思う。

明日は明日の、来年には来年の、5年後には5年後の変化した先でのしあわせを味わって、生きることを楽しみたい。

 

 

どきどき

何事もひとりで行動するということは緊張と不安の連続である。

そして新しいことをすることもまた然り。

その両者を今からやろうとしている。

ひとりで新しいことを。

ひとりで知らない人がわんさかいる空間に乗り込むのだ。まわりはひとりの方はあまりいないであろう空間に。

そしてコミュ力おばけ達の空間(想像)に。

私以外の人は知り合いだらけの空間(想像)に。

 

いいのだ。行きたいから行く。話を聞きに行くのだ。きっとそれだけでも楽しめる。自分にコミュ力が発揮できる雰囲気と空間と余力があれば誰かに話しかけよう。

行くだけで合格なのだ!!

恥をかいても行くことが合格なのだ!!

興味のあることに挑戦することは最高なのだ!!

自分最高なのだ!!!

恥くらいかいても新しい経験が出来ることは最高なのだ!!今から私は最高なことをしにいくのだ!!

楽しもう。

 

新鮮さと億劫

ネットでいろいろ探しても予算と機能の都合が良いパソコンデスクとイスをなかなか見つけられずにいましたが、先日家の近くのアウトレット家具屋さんで良さそうなものを見付けました。

デスクとイスと配送料と今あるローテーブルの処分代を合わせて15000円いかないくらい。やった、思ったよりかなり安い。嬉しいです。

他の家具とも同じ色合いだし、大きめなのできっと使いやすかろう。

あさって届くので人が入っても大丈夫なように部屋を掃除しなければならない。

引き出しや収納家具は付いていない物なのでその辺をどうするかはまた考えるとして、自分でも認めているフットワークの重さを考えるとこの新しい家具を買って古い家具を処分するという行為はすごいことなのです。

 

2~3年前に、処分する予定だったというテレビをいただいたのですが、いざ見てみると自分の使っているテレビの方が断然いいものでした。

子供がいれば子供部屋用にはちょうど良さそうな代物ですが、1Kひとり暮らしには持て余してしまいます。あまり何も聞かずに欲しいと返事をした手前、やっぱりいらないとは言えずそのままいただきましたが、一度も使わず数日前まで埃を被らせていました。

調べるとディスカウントショップではテレビの買取をほとんどやっておらず、粗大ごみでも出せないらしい。買った電気屋さんならば引き取りをしてくれるだろうが、どこかわからない。テレビをくれた方は仕事関係で知り合った連絡先も知らない方なので(よくそれでもらったなと思う)、残るは出張費と処分代を払うことになる業者に頼むか、足が無いので誰かに頼んで処分場に持っていくかしかない。でもどちらもお金がかかるし、誰かに頼むならその誰かに家に来てもらわないといけなくなる。そうなると面倒くさい。そんなことを思っていたらどうにも出来なくてあっという間に数年が経っていました。

ですが今は便利ですね。パソコンデスクとイスを探していたら地元専用の売ります買います系のサイトに辿り着き、そこではテレビのやり取りもされていたので私も試しに登録してみました。そして、取りに来ていただける方に差し上げますと投稿したらその瞬間からたくさんの連絡をいただき、なんとその投稿の数時間後には手放すことが出来ました。こんなに何年も悩んでいたことが一日で解決されました。自分で指定した近くのコンビニまで持っていく間に内出血になりましたが、今までの自分を考えるとすごいことなのです。

普段人とあまり関わらずに生活しているので、本来なら重い荷物を持って待ち合わせ場所まで行くことも(歩いて5分程ですが)、頑張って運んだ先に知らない人に会う状況が待ち構えていることも考えただけで億劫なのです。

結局家に使わないものがあるストレスの方が強くて手放せたわけですが、いざ使わないテレビの無い部屋を見渡すとびっくりする程に風通しが良く居心地が良い。

引き渡しは緊張したので、友人にどんな状況になるのか聞きながらその時を迎えましたら、交わした言葉はわずか2言でした。「あ、どおも~。これちょっと重いんですが…。」「では、ありがとうございます」

サイト内の情報だと、引き取っていただいた方は近所に住む同い年の女性で二児の母。以前の投稿を見ると同性の茶飲み友達が欲しいと書かれていたので、もしかしたらそういったお話になるのではと緊張しながら期待していましたが、とても丁寧に2言「ありがとうございます~」「では失礼いたします~」

私の一言目の後に彼女の二言が連続で発せられ、私の二言目に至りました。

薄ピンク色のTシャツワンピースを着て眼鏡をかけた物腰の柔らかそうな女性でした。

私が性別も年齢も自分の情報を公開していなかったからなのか、あっけなかった。簡単でした。嬉しいような悲しいような気持ちを友人に「わずか10秒」と報告して自分を保ち、今はすっきりした部屋に新鮮さを感じています。こんなに一瞬ですっきりを手に入れられるなら、もっと早く動けばよかった。部屋を取り巻く空気も変わった気がします。

そしてさらにこの心地よい空間にもうすぐ新しい家具が届きます。

 

そうしたら、次は壊れた風呂場の換気扇をどうにかしなければならない。

どうにかするためにはまず、人が入れる状態にするために風呂掃除を行い、そして管理会社へ連絡し、今の状態と経緯を会ったことのない知らない人に説明し修理の日程調整をしなければならない。そこまで頑張った先にはまた会ったことのない知らない人の来訪が待ち受けています。逃げたい。

普段人と関わらない生活をしている者にとって修理業者が家に来ることはかなりハードルが高く億劫な状況です。それに加えて風呂場の綺麗の保ち方がわからないままここまで生きて来たので、そこを人に見せるなんて出来たらしたくない。でも換気扇が動かないので窓も無いうちの風呂場は放っておくともっと大変なことになるでしょうね。

換気扇が壊れ始めたのは約1カ月前になります。もうそろそろ限界なので連絡しなければなりませんが、別に自分がいいのならこのままにしておくことも出来るのです。また数年どしようと悩んで月日の流れに驚くことだって出来る。

日々問題は山積みです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お世話になった小説たち

断捨離をしています。

本と大きなローテーブルを手放すことにしました。

そしてデスクとイスを買うことにします(やっと決心がつきました)。

あと服も靴も鞄も使っていないものを手放しました。

 

また欲しくなったら買えばいい。

本も、また読みたくなったら買えばいいと思うようになりました。

読んで満足したものや今の感覚に合わないもの等、どれも忘れないように写真に残しました。

 

 

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太宰治ヴィヨンの妻は確か頑張って読んだけど内容を楽しめるほど理解できなかった気がする。夢野久作の死後の恋と島尾敏雄の死の棘ははりきって買ったのに、言葉が難しくて調べる作業の方が多くなって疲れた結果読み切れませんでした…。

島本理生さんと村田沙耶香さんと早見和真のイノセントデイズは今読むのは少ししんどい。

宮下奈津さんの窓の向こうのガーシュウィンと池永陽の珈琲屋~は読んだ当時はぬるいなとかそんなことあるかい、とひねくれた感想を持っていたような気がする。

唯川恵のヴァニティーはもう別世界の話すぎて装丁かわいいなという感想しか覚えていないです。白石一文さんと絲山秋子さんも数冊読んだ全ての話が高学歴高収入仕事できますって人の話で、自分とは程遠くてお腹がいっぱいになったような気がする。

森浩美さんの家族の言い訳は、複雑な感情が完結にまとめられていて男性目線感も感じてあまり感情移入できなかった。

西加奈子さんははまっていた気がするのに内容をほとんど覚えていない。サラバの中はどこにいったんだろう。

ミステリー系は楽しんで読んだ気がする。

よしもとばななさんのスウィートヒアアフターは持っていたことも覚えていなかった。読んだのかな。

今村夏子さんのこちらあみこは理由はわからないけど序盤で断念した。星の子は、私と同じ宗教2世というところに興味がわいてすらすら読んだ気がする。確か当時は主人公もお姉ちゃんもきっと幸せにはなれないだろうなと思った。最後の家族3人の描写にぞわっとして、もう戻らない家族の歪みと待ち受ける絶望がきらきら光っているように感じた。無理に希望を持たせる終わり方じゃないところに好感が持てた。

 

そして今書いたものは全部、何年も前に読んだ時の感想、いや印象です。

詳しいあらすじなんてほとんど覚えていない。

でもその時に読んで感じたことって大切なんじゃないかと思います。好き嫌い関係なく、自分がどう感じるのかを楽しめるというか。本屋さんで選んで買う楽しさもその時の自分を豊かにしただろうし。だからきっと全部私にとって大切な本だったんだと思う。

ありがとうございました。またいつか。さようなら。

 

 

 

 

父の形見を捨てた

昨日、可燃ごみの日でした。

6年程前、父の葬儀前に湯灌師さんなのか葬儀社の方なのか、髪の毛を持っておくこともできますがどうされますか?と聞いてくれたので、母と兄は断っていましたがかわいそうな気がして私は父の髪の毛を受け取りました。

透明の袋の中に長さ2センチくらいの髪の毛の束が、細い白い和紙を帯にしてまとめられていました。それを薄紫の上質な和紙の封筒に入れてくれたので、その封筒と同じような和紙の小さい箱に入れたり、数珠入れの中に入れたりしてずっと保管していました。

 

それを昨日可燃ごみの袋に入れて捨てました。生ごみや鼻をかんだティッシュと一緒にいれました。少し前に母がくれた、実家に住んでるときに使っていた緑色のフェイスタオルに箱ごとくるみ捨てました。

最近寝付けないことが続いているので、ゴミ出しの時間に起きられないと思ったので夜中に出しに行きました。

 

うちから父の髪が無くなりました。

死んだ人のものなんだから大切にしなきゃ、みたいな感覚がずっとありました。あと、さみしかった。子供として、家族として、愛されたかったから髪の毛を持っていればなんかどうにかなるんじゃないかと思っていた。どうにもならないこともわかっていたけど。

きっと未熟な人だったから母のことも兄のことも私のことも愛していたけど愛し方がわからなくて表現を間違えたんだろうとも思っていた。

今もその気持ちはあるけれど、髪の毛を持ちたくなくなったから捨てた。

 

なんかわからないけどすごく腹が立つ。いらいらします。法事も結局行った。永代供養だから打ち合わせ無しでも行けばやってもらえた。母は行かなかったから私ひとりで行った。けど行かなければよかった。行かなければよかった。

 

髪の毛が無くなってよかった。気持ち悪い。

 

 

こんな日もある

部屋の模様替えをしました。

何回か変えて、一番しっくりくる配置にまた戻して、掃除機もかけて洗濯もして、そんなことをしていたらあっという間に夕方になっていました。

朝は起きてからしばらく頭も気持ちも動かずにぼーっと過ごした。

落ち込んでいます。自分でもわかるくらいに。

模様替えも気分を変えたくて多分やり始めたんだ。

落ち込むし焦るけど、今はこれでいい。

こういう時間を大切にしたい。ちゃんと生きてて偉い。

心では常に何かを考えていてフル稼働している。いろんな気持ちがあっちこっちにあってどれもいろんな方向から不定期に押しかけてくるから、何かに集中はできない。体は動かないけれど、忙しい。

大体猫背になってるから息も苦しくなったりする。

しんどいな~。こんな心と体の主の私は大変だよ。

でもやっぱり生きてて偉いんだよ。つらいけどがんばっています。ずっとがんばってる。多分生まれてから今の今までずっと絶えずがんばってる。誰もほめてくれないから自分で言うけど本当にいい子だし偉い。がんばり屋さん。

がんばらなくていいからゆっくり生きてくれ私よ。今日はいい夢が見れるよ。

 

 

虐待の被害者であることを受け入れる

ブログを初めたり気になる本を読んだり、自分を見つめるような時間を過ごしていて思ってきたことがあります。

ノンセクシャルやストレスを抱えやすいこと、人間関係が壊滅的に苦手なこと、それが仕事に影響を及ぼすこと等は何かの結果そうなっているだけであって、今私が向き合うべきところは同じノンセクシャルの人との出会いを求めることやストレスを抱えないようにすることではなく、なぜそうなったのか思い出すことじゃないかなと。

うっすら思ってきたことを、見ないふりするんじゃなくちゃんと見ていくこと。今の私にはやっぱりその作業が大事なんだと思う。

家族のことです。

昔のしんどかった記憶を思い出して、これもまたしんどいけどそれを受け入れること。それが出来たら今よりもかなり楽になれるんじゃないかな。

ある程度受け入れられているつもりだったけど、恥ずかしさや惨めさや悲しさやそんな自分を見たくないというプライドで認められなかったことがまだある。言葉にしたり文字にするのはもちろん、私には過ごしてきた日常だったというだけでそれが社会的にどのようなものなのか繋げたこともなかったけど、繋げて過去を見てみると、私はきっと父からの性的虐待の被害者にあたるんじゃないかと思う。

すごいパワーワード

ずしんとくる。

行為は無かったけれど小学生になる前から触られていて、当時は何が起きているかわからなかった。いやな空間という感覚はあってもどうしていいのかわからなくて、初めてそれがあった時その混乱を母に話したけど、母は触ってないと言う父を信じたのかそういうことにしておきたかったのかすぐに話は終わった。それからは誰にも言えなかった。

昔診療内科に通っていた時も話せていなくて、カウンセリングでそういった話題をされるようになってから行くのをやめてしまった。多分まだ向き合う余裕がなかったから無意識に拒否していたんだと思う。今の今まで誰にも話していないし文字に表したのもこれが初めて。

こわいです。この日記短いのに何回も書き直してる。

今は人から性の対象に見られることが苦痛で、もう無理にがんばろうとするのはやめています。体の関係をもたなくても一緒に過ごせる相手がいい。だけど母親との関係が良くなってきた今、子供に対しての憧れも出てきてこの矛盾した気持をどうしたらいいのかわからずにいます。

父から行為そのものは無かったので性虐待という言葉にも今の男性が苦手なことへも繋げたことがなかったけれど(うすうすは思っていたけど)、これはやっぱり性虐待とその結果にあてはまるんだと思う。

ただ単に機能不全家庭で育ったからこうなってしまって苦しいと思っていたらきっと前に進めない気がする。頭のおかしい両親の元で異常な環境で生きてきたことを受け止めれば、普通の人も世の中には居て、自分が幸せになるにはその普通の人と人間関係を築いていけばいいと理解すればいいんじゃないかと思うわけです。

ただこれがなかなかできない。男の人はみんな私を精神的にも肉体的にも支配してぼろぼろになったら捨てる生き物のように見えるし、女の人は結局私を否定して追い詰めてくるのに弱い人だから助けてあげなきゃいけない生き物のように見える。だけど実際は男女問わず、与えたり与えられたりしながら健全な関係を築けて安心できる空間を一緒に作れる人はきっとたくさん居る。私は普通の人とこの幸せを作っていけると思えるようになればいい気がする。

 

もっと苦しい思いをしている人もいるから私が軽々しく自分が被害者と考えていいのかとも考えたけど、穏やかな生活を送っているとはいえ今も苦しいししんどいのは本当だからそこを受け止めたい。

何回も言うけど、惨めだし悲しいし恥ずかしいから人に話したりは出来そうにないけど、ここは自分のための場所だから書いてもいい。

信頼してる友達に話せるようになれば少し楽になれるのかもしれないとも思うけど、こんなことまで知られたくない気持もあるからそれはそれで置いておく。

これから少しずつまた自分を見つめていこうと思います。